戯曲について

今日も戯曲について書きます。

前回ここに「当初の目論見とは少し違ったところにたどり着いた」と書きました。

実は僕にとってそれはまあまあよくあることで、プロットは出来る限り綿密に作るし、作りたいのですが、書き進めているうちにそれを裏切りたい。むしろプロット通りに書けている時などは「調子が悪いのではないか?」と思うタイプなのです。

とはいっても、どうしても裏切れないプロット上のポイントもあります。

非常に難産だった作品で、四の五の言ってる場合じゃないというところまで追い込まれた『或いは魂の止まり木』においても、それがありまして、

(語形式としての父親探しの導入とその顛末。

∧貎討鯤貔という神話から解放すること。

ブラザーフッドについてクールに検証すること。

さ△訃貊蠅無くなっても人は生きていけるのか。

の4つでした。

,六Δ型圓されたと思いきや忘れたころに再帰する父親的なものについて、△鷲秧討殺し尽くされ後に残される母性のデストピアについて、は父親的なものと母親的なものが消失した後に希望を託されがちな兄弟的な絆について、い浪誕する社会の流動化に人はどれだけ耐えられるのか?

といったところでしょうか。

まがりなりにも現代劇として家族劇を書くならなら、とりあえずこのあたりは押さえておきたいと思った次第です。

ただ、ここだけの話、そんな僕の思惑を軽々と越えるお芝居が今、稽古場で展開されておりまして、もう少しここに書き足したいところなのですが後出しが過ぎるので我慢します。

書いた時には気付かなかった点と線が繋がってゆく。

劇作家冥利に尽きるとはこのことですね。

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